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わたしたちって

それが実際に存在するかしないかは関係ない。それがあなたには”見えている”という事実がある。私達は決して自分自身の目で以て世界を見ることからは逃れられないのであれば、人を自分を知ることには対象物を知ること以上の益があるかもしれません。

生きるということ

今私がぶつかっている本質的な問いはなんだ

 

物語が頭に入ってこないのは、

紡ぎだしたい何ものかがあるからだろう

 

思考を巡らせた問いや課題はたくさんあるけれど、

今ふつふつと湧き上がってきそうな気配のしているものは

きっと未だかつて顕在化してきていない課題のような気がする

 

届きそうで届かなくってもどかしいな

 

今日の夢は、自分が見に覚えのない昔の罪が

突如として自分のものとして顕在化してくる夢だった。

私には身に覚えのないもので、関係がない部外者気取りでいたのに

次々に、それをやったのが私だとしか言えないような証拠が出てくる。

私が抱いた冤罪を着せられてしまうという驚きや恐怖は、

次第に本当に私はやってしまったのではないかという恐怖に変わり始める。

 

 

誰の目から見ても確かにそこにあるという事実が、

私の自己認識、何なら私それ自身を揺るがしていた

 

自己は、言ってしまえば観念でしかありえない。

私が私をどう認識しているのか、

私のアイデンティティーをどう捉えているのかという

目に見えない観念は、強力な力を有しているにも関わらず

あまりにも他者に対して説得力に欠けている。

 

それに比べて、誰の目に見ても明らかな現実は、

雄弁でインパクトが大きい。

 

私の心で起こっているのは

唯物論と唯心論のせめぎ合いであろうか。

 

明らかに、私がそれに負けるのかどうするのかは、

 

全く持って意識に託された形で夢が終わるのは、さすがである。

 

全く無意識というものは、笑ってしまうくらい

あまりにも力を有していて、あまりにも無責任ではないか。

しかし、だからこそ私たちは責任を持つべく意識を有しているのであろう。

 

無意識という大きな果てのない海の中で

無防備な船に乗った私たちが意識だとしても、

それでも、舵をとっているのは意識である。

舟人は海に置いて多くの危険に晒されるのみならず、

海から多くの学びや、糧を得ている。

 

私が知らなかったはずの物語が、

こうして無意識の力を借りながら私から紡ぎ出されていくこの感覚は

私にとって何ものにも変えがたい。

 

さて、大きく話が迂回してしまったが、夢の話に戻ろう。

夢の示唆するものはなんであろうか。

 

多くの人の語る話や社会の仕組みや当然(周りが示してくる罪の証拠)に対して、

私自身が自分を忘れてその意見を内在化しかけている(本当にその証拠のいう通りかもしれない恐怖を感じている)ことを示しているのであろうか。

はたまたシンプルに、私自身が見ないふりをしている何かや、

既に忘れてしまった何かに対しての、再認識を迫っているのであろうか。

 

あるいは、誰かに対して着せている罪(それは他者の罪であり私の罪ではない)は、

実は自分自身こそが有しているものなのじゃないかという示唆であろうか。

 

とにかく私は無意識において、

自分のした覚えのない罪に、物的な証拠からサスペクトされつつあり、

私自身は冤罪を着せられる驚きと恐怖が、

自分自身のしてしまった罪なのではないかという恐怖へ変貌していくことを体験したのである。

 

私の自己は、まだまだ外の世界に揺らがれるナイーブな状態で「大丈夫」な状態とは程遠いから、

じぶん自身は一体、どうありたいのか、その意思を再強化しなければ

黒人がかつて黒人であるが故に劣等であるという常識を自ら信じてしまったように、それに屈服してしまうかもしれないという警告なのかもしれない。

ガンジーや、キング牧師にあった信念の強さの不足を教えてくれているのかもしれない。

 

あるいは、私は自分がしてきている何かに対して完全に盲目的で、

その自分の行なっている不公平な何ものかを捕まえて、どうにかしないといけないのかもしれない。

そして、私はその自分の罪を誰かに擦り尽きて完全に自分と切り離してしまっているのかもしれない。

 

恐らくパワーバランスの違いはあれど、それらのどちらの意味も有していて、かつそれ以上のことをこの夢は含意しているのであろう。

 

自分の苦手や失敗や見たくないところと、

向き合うことこそが大切だと強く言っている私自身が、

きっと自分自身のそれから大きく目をそらしてしまっているのだろう。

 

思い当たる節が一つ。 

もしかしたら私がそうではないはずだと首をふり、

他人に罪を着せているそれは、

人に優劣をつけたり、世間の目を内在化させて、

自分の態度を決め周りの人間を見ている自分自身なのかもしれない。

他人を見下し、我と汝として向き合うことを試みない誰かに対して、

心の中で強く糾弾をしている私自身が、

実はまさに他人のいうところをメガネとしてかけて人と対峙をし、

他人に恥ずかしいと思われないかどうか、

他人にどう思われるかを判断基準にして行動や相手を選んでいる。

全ては他人から見える自分自身を気にかけている私自身の罪への

気づきを促されていたのかもしれない。

 

これは、悲しいかな、

先に述べた夢が示唆する可能性の全てを具体化したものに他ならない

 

私自身は、私自身が心から思っていると思っていることよりも

世間の声にいとも簡単に流されている。

私は、自分が色眼鏡で人や物事と対峙し自分の振る舞いを決めていることに気づかぬふりをしている。

そして、そうやって振る舞う多くの人に対して批判的である。

 

がっかりするけれど、その通りである。

その通りである自分をまず受け入れる必要がある。

 

最近はそういうことに気づくことが凄く多かった。

勿体無いくらい素晴らしい友人たちに会ったとき、

私に向き合ってくれる皆を目の前にして

なんと伝えても足りないような感謝の気持ちと、

自分の気持ちがしてもらったことに対して

全く足りていなかったことに対する罪悪感を感じた。

 

私は自分のことばかり考えていた。

私はまだまだ、自分を格好良く見せたり、傷つかないように守ることばかり考えている。

 

でも人生において、大事なことはきっと違うはずなんだ。

私は、一瞬の命をこの世界で授かって、

間違いなくあっというまに死んでしまう。

 

いくら守ったところで、いくら格好つけたところで

私という実在は、すぐに簡単に消えてしまう。

 

私がそれでも命を授かって、

この短い80年くらいの人生の中でしたいことは

たかが80年しか生きられない私を、頑なに守ることではない。

与えられた短い時間の中で、

この地球で、私はしっかりと生きたいのである。

そう、しっかりと生きたいのである。

 

ままごとで、人生を終わらせたくないんだ。

 

しっかりと目を見て、対峙して、向き合って、

目の前の人の声に愛を持って耳を傾けて、

 

傷つくことのない人生よりも、

傷つくこともあるであろう、愛のある人生を選びたい。

傷つかないことが目的であれば、

きっと生きないということが最上の答えになってしまう。

 

生きているというその時点で、

傷つかないようにすることは、

一番初めに諦めるべきことなのだろう。

 

この世界で私は、毎日を、しっかりと生きたいのである。

どう生きるか

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世界は進化している。

世の中便利になっている。

果たして、この進化の先に人間はいるのでしょうか。

 

人が一番怖いのは、分からないということそのものである。

分からないものは怖い。だから暗闇も怖い。

だから、昔から世界を理解するために、人々は勉強をして

現象の原因を解き明かすためにそれこそ古来から、四苦八苦してきた。

どこの国にも宗教や神話があった。

それはわからない地球や自分たちを理解するための光だった。

そして自然科学が台頭し、世界を真理に導く光となり、今や宗教や神話は日の当たらない場所へと追いやられている。

 

しかし自然科学がカバーできなかったのは、人がいかに生きるべきかという問いである。

自然科学には価値基準が無い。

良い、悪いなんて人間が決めた但し書きの価値基準に過ぎず、

人間の主観を締め出す自然科学において、良いも悪いも存在しない。

わたしたちは、現実世界を客観的に認識する尺度を手に入れ、

対象を道具として使いこなす大きな力は手にいれてきたが、

それは決して客観的ではいられない人間の心も締め出して成長をしていて、

対象の世界に人を引きずり込もうとしている。

 

人は信じるものがなければ強く生きてはいけない。

 信じる人は大声で叫び、信じられない人は不安な声で呟く。

こうしていれば救われるなら楽なもんで、生き方が示されていれば、迷わなくて済む。

 

適切な◎◎のため、を人間は昔から上手く作ってきたけれど、

今は一体どうしたものか。

人々の生き方という超主観的な問題への答えは自然科学は持っていない。

それが故に、その主観的で答えのないグレーなものは、

重要でないもの、たわごととして葬り去られてしまったけれど

決して客観的でいられない我々人間は一体どうやって

生きていったらいいんだろうか。

 

人間が関わる限りにおいては、人間を主役として考えた際には

その対象を見る人間の内的状況をどうしたって問題にせざるを得ないわけであって、

人生の主役である私達一人一人は、対象理解だけでは安眠できない。

 

確かに時代は進歩している。

もしあなたに行きたいところがあるのなら、

あなたは昔の人々に比べてよっぽど速く進むことができる。

わたしたちは人生を通して、かつてないほど多くのことを為せる時代に生きている。

 

あなたは、あなたの周りにいつもいる親しい人々と、

そしてまた日本中、はたまた世界中の多くの人と一緒に優雅に流れてる。

仕事や勉強や遊びに没頭したり、お喋りに夢中になったりなんかして。

でも、あなたは自分がどこに向かって進んでいるのか、知らないかもしれない。

途中で誰かが、僕が進みたいのはこっちじゃない、と流れに逆らって、

一人自分の意志で泳いで行く。

すると誰かが「あいつはバカだ、失敗するよ」と声高に言い、

多くの人が口をそろえて、そうだそうだと頷く。

そこで、頷いているうちの一人は、心の底からバカなあいつを気の毒に思っていて、

もう一人は少しのうらやましさを抱きながらも、みんながバカだと言うからなんとなく頷いていて、

もう一人は、自分たちが正しいと信じ込みたいあまりに、あいつの失敗を願ってる。

大丈夫、なんかあってもみんな一緒だし。

 

これは、昔からよく起きていることだったかもしれないし、

その波に乗っている人は、それなりに幸せだったかもしれない。

でもこれからは違う。

 

生き方はどんどん多様になり、

”この道を行けば安泰”みたいな分かりやすい道は無くなっていく。

何でもできる選択肢が無限にある時代に突入しつつある中で、

なんとなくみんな一緒が良いという文化だけが残り、

時代遅れの道を進むことを進められ、でもその道を進む理由も思い当たらない。

宗教も国家も会社も、幸か不幸か、

今や大きな力は持ち得ず、

尽くせば、信じれば救われるものは

あなたの周りになにもない。

 

でも思い出して。

あなたは、その代わりに自分の生き方を自分で選択する自由を、もっている。

 

あなたは、何をしたいのか。

あなたにとって、何が大切なのか。

あなたは、どんなふうに生きていきたいのか。

自分自身と向き合うことが凄く大事な時代になっているんじゃないかと思う。

 

あなたはもう一人。風一つない海の上。

超ハイテクな水上バイクを持っていて、生きたい方向に自由に行ける。

あなたは、どこに行きたいんでしょう。